【保育の現場から】泣かない注射と、泣きたい先生
子どもたちと保育士たちとの心温まるふれあいの日々。
忙しい日常に、ほっこりしたひと時をお届けできればうれしいです。
ごっこ遊びは、3歳児の頭の中をのぞく時間
3歳児クラスのごっこ遊びは、毎回ちいさな開店ラッシュです。
今日はレストラン、次の日は電車、気づけば引っ越し屋さん。
看板も許可証もないのに、子どもたちは堂々と営業します。
そして、その“堂々”の中に、昨日の経験や今日の気分が、しれっと混ざります。
この日、コーナー遊びの時間に始まったのは「お医者さんごっこ」でした。
誰が言い出したのかは、もう分かりません。
でも、白いタオルを首にかけた子が出た時点で、開院は決まりです。
いちばん人気は、注射の道具
お医者さんごっこが始まると、必ず争奪戦になるものがあります。
注射です。
本物ではなく、おもちゃの注射器の形をした道具なのに、なぜか人気は本物級です。
「それ、わたしの!」が飛び交って、診察室のはずが受付で渋滞します。
「順番ね」と言えば早いのですが、3歳児のごっこ遊びは勢いが命です。
勢いを止めずに、でもケンカを増やさずに。
ここが保育士の腕の見せどころです。
私は棚から、ストローと小さな紙コップを出しました。
注射は一つでも、道具は作れる。
3歳児は「あるものでそれっぽくなる」天才です。
「先生」を名乗った子が、急に弱くなる
注射を持ちたかったのは、Aちゃんでした。
Aちゃんは朝から「わたし、おいしゃさん!」と言って、ずっと先生役を狙っていました。
ところが、注射を手にした瞬間、顔が固まりました。
そして、うしろにいたBくんに小声で言いました。
「…こわい」
先生なのに。
先生なのに注射がこわい。
ここが3歳児のかわいさの核心です。
なりたい自分と、今の自分が、同じ体の中でぶつかります。
私はAちゃんの横に座って、注射を奪わずに、軽く持ち方だけ整えました。
「先生でも、こわい日あるよね」
Aちゃんは黙ってうなずきました。
患者役のはずが、いきなり大物になる
そこへ、患者役に寝転んだCくんが言いました。
「ぼく、びょういん、きた」
そして、なぜか胸を張りました。
患者なのに。
患者なのに勝ち誇った顔。
Aちゃんが恐る恐る近づくと、Cくんは腕を差し出して言いました。
「ここ、ちくってして」
周りの子がざわっとしました。
「ちくってするの?」というざわざわです。
ごっこ遊びの世界でも、注射はちょっと特別なイベントです。
Aちゃんは注射を持ったまま、固まります。
目はCくんの腕を見ているのに、足が進まない。
そのとき、Bくんがストロー注射を持って、すっと間に入りました。
「じゃあ、ぼくがする」
言った瞬間、Bくんの顔が急に先生の顔になりました。
子どもは役を受け取ると、顔まで変わります。
「だいじょうぶ?」が飛び交う診察室
Bくんはストロー注射をCくんの腕に当てました。
「ちくっ」
Cくんは目をぎゅっと閉じました。
そして次の瞬間、ぱっと目を開けて言いました。
「…いたくない!」
その言い方が、とても誇らしげでした。
痛くない宣言。
見ている子たちも安心します。
すると今度は、患者が次々に増えていきます。
「わたしも、びょういんいく」
「ぼくも、ちくっする」
診察室が急に繁盛します。
Aちゃんは注射を手に持ったまま、まだ迷っています。
そこでDちゃんがAちゃんの顔をのぞき込んで言いました。
「Aせんせい、だいじょうぶ?」
患者が先生を心配する。
3歳児の世界では、こういう逆転がよく起きます。
そして逆転が起きるほど、遊びは深くなります。
Aちゃんは少し笑って、ようやく言いました。
「…だいじょうぶ」
言ったあと、自分で自分の肩をとんとんしました。
大人の真似をした“セルフ励まし”です。
お迎えで、保護者が知らなかった一面が出る
夕方、お迎えに来たAちゃんのお母さんが、いつものように聞きました。
「今日は何して遊んだの?」
Aちゃんは少し考えてから、短く言いました。
「びょういん」
それだけで終わりそうだったので、私は今日の場面をそっと足しました。
「Aちゃん、先生になりたくて注射を持ったんですけど、ちょっとこわくて。でもお友だちが『だいじょうぶ?』って声をかけてくれて、最後は自分で『だいじょうぶ』って言えました」
お母さんは驚いた顔をして、すぐに笑いました。
「家だと強気なのに、園だとそんな顔もするんですね」
そして、少し小さな声で続けました。
「でも…よかったです」
強気の子が弱音を出せる場所。
それは、園の大事な役割のひとつです。
まとめ
3歳児のごっこ遊びは、ただの真似っこではありません。
なりたい自分、こわい自分、助けたい気持ち、心配する気持ち。
いろんな気持ちが、役に乗って出てきます。
今日の診察室では、注射を持った先生が泣きたくなって、患者が先生を心配しました。
そして「だいじょうぶ」があちこちで交差しました。
ごっこ遊びの面白さは、予定通りに進まないところにあります。
3歳児の頭の中をのぞかせてもらったような、にぎやかであたたかい午後でした。